Vol.8 キリスト教の伝播と薩長の台頭


キリスト教は、フランシスコ・ザビエルが、1549年に伝えた。


ザビエルは、以下の様な足跡を残している。


  ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、
  ファン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドール
  というインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と
  共にゴアを出発、日本を目指した。


  中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(たま
  たま当日はキリスト教の聖母被昇天の祭日だった)に鹿児島(現在
  の鹿児島市祇園之洲)に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇
  城で薩摩の領主島津貴久に謁見し宣教の許可を得た。ザビエルは鹿
  児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職、忍室(にんじつ)との
  宗教論争を行なった。(1)


また、


   ザビエルは鹿児島に上陸したんですよ。そして、平戸を通り、山
  口を通って京都に行きます。ところが京都で布教の許可が得られな
  い。日本のトップに会って布教を一挙に進めようとしたが、うまく
  いかなかった。
   そこで、再び山口にもどってきました。山口というところは、も
  ちろん中国地方最大の守護大名戦国大名に成長した大内氏の城下
  町で、「西の京」という別称があるくらい。大内氏が京の文化をせ
  っせと山口に持ってきた。その山口にザビエルがやってきました。
  そして大内義隆の館を訪ねて、布教の許可をもらいます。(2)


とある。


ザビエルが、薩摩(鹿児島県)と長州(山口県)で、他の藩よりも
早く、布教活動を行なったということだ。
    

その間に、「愛」を基盤にした自由な気風が生まれたのではないか、と私は思っている。
それが、討幕を推進する力になったのでは、と。


薩長が討幕運動で重要な役割を果たしたのは、
薩長で早く布教活動が行なわれたのが原因だ、と考えているのである。


これは、極論かも知れない。
皆、馬鹿にするかも知れない。


しかし、単なる仮説として、認識していて欲しい。
このような訳で薩長は台頭したのである、と。


 (1)フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』、最終更新 10:59, 2006年
   10月7日 (土)
 (2)石川晶康:『石川日本史B講義の実況中継②』(語学春秋社, 2005)


人気blogランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ