Vol.2 菩薩は自分〜56億7千万年後の到来


母と太秦へ行ったことがある。


京都の東映太秦映画村へ行ったのだ。
残念ながら、映画村で観るべき点は、ほとんど無かった。
行なわれていた模擬撮影も、実際の撮影にある(と私が思う)
緊迫感に欠けていた。


女優の浅野ゆう子さんが、当日の呼びものとして来ていて、
「ありがとうございますうー」
と映画のヒットの感想を述べていた。


私が書きたいのは、そこからの帰りだ。


広隆寺に寄ったのである。
映画村から、すぐ近くの。


ここには、かの有名な国宝・弥勒菩薩像がある。
実際に観る弥勒菩薩像は、光沢があり、美しかった。


館内放送が終わった頃、驚くべきことが起こった。


皆、手を合わせて、目をつぶり、拝みだしたのだ。


私は、冷静に、しばらく、その状態を観ていた。
30秒ほどして、自分が<馬鹿>であるような気がしてきた。
そこでは、拝むほうが正解であるような気がしてきたのだ。


そして、最後に、その人たちに習い、私も手を合わせ始めた。


菩薩像のある建物を出て、
館内放送の内容を、
あやふやに覚えているところがあったのに気付いた。
私は、係員に尋ねに行った。


戻って来た私に、母は聞いた。
「分った?」
「分った」
「良かったね」
「良かった」


係員の話によると、
菩薩は、釈迦の死後、56億7千万年後に現れるという。
この数字を確かめに行ったのだ。


「56億7千万年」。
この膨大な時間は、一体、何を意味するのであろうか?


太秦駅への小雨の降る中、私は考えた。
その膨大な年月の間、菩薩像を拝みながら、
「菩薩などは現れない、自分が菩薩にならなければならない」
と思い至らなくてはならないということではないだろうか?
そう思ったのだ。


帰りの電車を待つ間に、
太秦では、映画村へ行かず、広隆寺へ行くのが正しい」
と感じた。


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